K  B  C  ニ  ュ  ー  ス



第 28 号
◇ ロールコール1300回記念特別号 ◇
(平成14年11月9日発行) 
 


   ロールコール1300回を迎えて  会 長 JG1CVW
 
 今年は甲府盆地無線倶楽部の2巡目の会長を引き受け、早や10ヶ月が経ちましたが、自治会等の役との重なりで思うようにロールコールにも出られず各局に迷惑をかけている昨今です。
 広報QSL部長のJFIKRV局より、ロールコール1300回を記念して、KBCニュース特集号を出すので原稿を書くように連絡を頂き、私もこれまで趣味で始めた無線もかなり長いこと続けてきたとは思いますが、改めて何年経ったか数えた事もなくここまできてしまい、今回こうして原稿を書くにあたり自分なりの手元にあった古い資料を見て驚いてしまいました。
 免許を取ったのが20代の終り頃、来年は還暦を迎える事を考えると、丁度30年の節目の年になります。開局して3年目位の時期だったと思いますが、無線を長く続けるにはお喋りばかりでは必ず行きづまる所がある、変化をつけて楽しむにはクラブ等に入る事も必要ではないかと考えていた頃、新しいクラブ創りの話が持ち上がり7〜8名での発起人の1人として加わえさせて頂いたのが、甲府盆地倶楽部参加への始まりだと思います。
 ひと口に1300回と言うが1年に約50回で計算して26年を数える訳で大勢の集まりの会でありながらよくもこれまで続いたものだと感心してしまいました。
 私も無線を始めてからこれまで『太く短く』でなく『細く長く』を目標にして来ましたが、倶楽部の長続きはまた少し異なります。世間でよく百歳まで長生きした人に質問で共通して返ってくる答えはいくつかあり、甲府盆地倶楽部にもこうして長続きした理由もいくつかあったと思います。
 スタート時点から厳しい入部規定や数々の会則を作り、皆平等に役割分担し会員の職業も全員異なるといった変わった集まりであった事も長続きの要因であったと思います。
 一時は甲府盆地倶楽部に入るのはとても大変だと言われた時期もありましたが、厳しい約束事もお互いに守り、またお互いの立場を理解して活動してきたからこそ現在に至っているのではないかと思います。
 私も最初に会長をやらせていただいたのが1983年、ちょうど15年前になります、この時のKBCニュースNo.14が手元にありこの時の懐かしい様子が思い出され、この頃が倶楽部として最も多くの局があった時期だったと思います。
 名簿登録局数も現在の2倍以上の32局、担当部も企画、広報、技術、日赤、運用、QSL、スポーツ、講習会担当と8部もあり、今考えると無線倶楽部でありながらスポーツ部等変わった部もありました。
 JARL主催のソフトボール大会の為に何日も練習をして親睦をはかったこともありました。倶楽部独自で管理者も置き、又講師まで準備し無線技師養成講習会を開き多くの新しい局の誕生にも協力しました。県立盲学校の生徒達の受験準備も会員全員で協力した事など他のクラブとは違った活動もしたことが思い出されます。
 JCCサービス等も県下全部がサービス出来、実施前にはロケーション等の下見まで実施し、テントに泊まってのサービスなどたくさんの思い出があります。 信玄公祭りでの記念カードの発行サービスは今でも続いていますが、祭り当日には日本赤十字に協力してハンディ機持参で祭りの警備の手伝いをした事もありました。また、甲府盆地YLクラブも結成され10局ほどの参加があり各行事に花が添えられた時代もありました。
 ロールコール1000回記念もちょうど6年前になりますが、この時には記念行事として総会を兼ねた伊豆方面への一泊旅行も初めて実施され、これも良い思い出として残っています。最近は各局の平均年齢も60歳台になりつつあり、これまでのような活動は無理になるかも知れません。現代のクラブ各局は人数こそ少なくなりましたが本当に無線を愛し、無線しか趣味のない人ばかり(失礼)が残ったような気がします。倶楽部活性化のためには若い新会員の参加も必要かもしれませんが、本当に気心の知れたこれまでの仲間がお互いに無線を楽しむ中で交流があるならばロールコール回数も1500回、2000回もけっして夢ではないと思います。どうか目標にむかってこれまで以上の無線ライフを楽しみましょう。


      「ロールコール1300回」記念
        日本アマチュア無線連盟山梨県支部支部長   J I 1 B V T

 2002年の秋、伝統ある甲府盆地無線倶楽部におかれましてはロールコール1300回という輝かしい金字塔を達成され誠におめでとうございます。ひとくちに1300回という回数はキー局をはじめクラブ員のご努力の積み上げてはじめて達成されたものであります。まさしく甲府盆地倶楽部の意気込みと情熱、団結力の結果ではないかと思います。
 私がまだ甲府養護学校に勤務していた時代に甲府盆地倶楽部のみなさんはボランティア活動の一環として目の不自由な方々にアマチュア無線を指導しておりました。障害をもっている方たちに少しでも趣味の世界を広げてやろうという甲府盆地倶楽部のみなさんの姿勢に感動したことを思い出しております。 また、日本アマチュア無線連盟の主催した甲斐路総会やARDF競技大会の運営、さらに山梨県支部の諸行事では中心的な存在として活躍していただいたりしております。
このように幅広く活躍されておりますことを考えますと、人間であるならば「品位ある人間性」と言えるのではないでしょうか。甲府盆地倶楽部は人間的にもすばらしい方々が集まっているからこそ幅広く活動し、この1300回という回数を重ねることができたと思っております。
 この記念すべき会報に原稿を載せていただく事に感謝し、今後とも貴倶楽部の益々のご発展と倶楽部員のみなさまのご健康を祈念し、お祝いのことばとさせていただきます。


     甲府盆地無線倶楽部 様
      日本アマチュア無線連盟山梨県支部副支部長
      総務省 山梨県電波適正利用推進委員協議会会長   J G 1 H L D

 山梨のハムのリーダー的な存在で有り、ハムの行事でも積極的に協力と参加を実践している貴倶楽部を目標として、私のクラブも追い着こうとしているのですが、会報も28号、そしてロールコールも1300回との事、数字で書くのは簡単なのですが実際に継続するとなると、なかなか出来なく困難な事です。何事も10年続けば一人前だといわれますが、それにBを掛けると成るとやはり何かがあるんでしょうネ!貴クラブ員の方が言っている「されどアマチュア無線」がすごく本当の重みを帯びて聞こえてきます。
 最近のハム人口が減少と嘆いている人達に、非常に励みになる継続だと力付けられます。私が、ある始めたばかりのハムの会合に出席させて頂いた時に、挨拶の中で「10年目に1人の人がアマチュア無線を趣味にしていますと、言える人がコノ場所に着たら今日の会合と意義が十分に達成出来たと言えるんではないか。」と言った事が有りますけど、それが3回も有ったんだから、只、只凄いです。ちなみに其の場所には、未だに趣味はハムですと言う人がきています。が、「今はオンエアーは余りしていないんです。」のお互いの挨拶に少し寂しさが有りますが、私も含めてですが交信は余りしなくても、胸を張って趣味はアマチュア無線ですと言い続けていきたいと思います。
 貴クラブの継続と記念に、お祝いと感謝の気持ちを込めてオメデトウと言わせて下さい。何時まで末長くハムを趣味とする人達の目標に又、甲府盆地無線倶楽部の各局の活躍をさらに期待してお祝いのメッセージとさせて頂きます。


     1300回ロールコールに寄せて
         日本アマチュア無線連盟山梨県支部副支部長  J E I S P K
                     (峡南ハムクラブ事務局)

 40、44、48といえば、最近開局した方には、その数字の意味がたぶん、わからないかもしれませんが、長きにわたり毎週ロールコールを開催している、甲府盆地さん、峡南、バイオニアさん(正式名は略)です。全国的にも、このようなロールコールを長きにわたり継続しているクラブは他に例がないと患います。
 何年か前に、JARLの会議の席上、「山梨のハムの現状を教えて下さい……。」と話され 「山梨には20年以上も毎週ロールコールを2メーターで、40ケ−シー間隔で3つのクラブがオンエアーしてます……。」みんな「ほおっ〜。」気持ちよい小さな歓声でした。原会長、関東各県のJAlの支部長さん方は、そのアクティブティにビックリ……。支部長代理で出席した私は誉めてもらってうれしかったです。HiHi。
 どの位たつのかな…‥‥。恒例の三波合同の忘年会を、それぞれのクラブが毎年、ホスト役になり、甲府のニュー芙蓉、勝沼のぶどうの丘、市川の四尾連湖……。懐かしいですネ。 145、40MHz、44、48の40KCのバンド幅の周波数設定は、お互いの混変調などの影響もなく、今になればとてもよい設定でした。
 さて、ロールコール1300回おめでとうございます。年間52回、10年で520回、20年で1040回…・・・。もう25年も、たつんですネ。甲府盆地さん(敬称略)との思い出はいろいろと、ありますが、FOXハンティングでは手ぶらで、なんと夫婦同伴で参加。下位に入賞、FOXの賞品、弁当まで頂きました。T・OMが「SPKはクラブ員じゃあねえけんど、特別だど〜。」うれしかったです。
 9年前に甲府で開催された第35回JARLかいじ総会。4年前、清里で開催された関東地方ARDF。1999年の節目には全国ARDF競技大会を泉郷で行なわれ、秋山アキラ支部長さんが「山梨で開催したいので、ぜひ協力してほしい……。」と話され、土日には毎週甲府盆地さんの実行委員を中心に北巨摩参りが定例になり無事、事故もなく天候にも恵まれ終わることができたのも、貴クラブの全面的な協力があったからこそでした。
 マチュア無線の人口(JARL会員)は、年毎に減少しておりますが、JARL会員の有無はともかく、無線を好きな方は、ずう〜つとこれからも続けていくことでしょう。
 1300回達成記念、甲府盆地無線倶楽部さんおめでとうございます。


     お 祝 い

この度は甲府盆地無線倶楽部 ロールコール 1,300回を迎えられ、お慶び申し上げます。
 第1回は昭和52年2月と伺っておりますが、その当時のアマチュア無線局は約35万局程度と現在の1/3以下で、山梨県内のJARL会員も400人に満たない状況と記憶しております。V/UHF帯の無線機も今のように任意の周波数を選択できるPLLシンセサイザー方式のトランシーバーの黎明期であり、まだ水晶制御方式が主流となっていました。第1回のアマチュア無線フェスティバルが晴海で開催されたのもその年です。
 さて、甲府盆地無線倶楽部の皆様には平素よりJARL山梨県支部の行事にご協力頂いておりますが、90年代のビッグイベントであった、93年5月の かいじ総会、97年7月のARDF関東大会、99年11月の全日本ARDF大会でのご協力は今なお記憶に新しいところです。
 特に、2回のARDF大会では、当時のJARL山梨県支部ARDF 正副委員長のJA1BDE/丹沢さん、JF1KRV/塚原さんを始めとする甲府盆地無線倶楽部の皆様のご協力無くしては成功しなかった、と言って過言ではありません。
 近年、低調となっているアマチュア無線ですが、今後も地域の中核クラブとしての甲府盆地無線倶楽部の益々のご盛栄をお祈りすると共に、JARL山梨県支部への変わらぬご支援を賜りたく宜しくお願い申し上げます。

 2002年10月 JARL山梨県支部運営委員、事務局担当  J R 1 E T Y
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 1958年生、1970年 JR1ETYで免許 1994年〜 JARL山梨県支部事務局担当


    アマチュア無線50年史 JA1BDE
 
 甲府盆地無線倶楽部も設立して25年になり月日の流れの早さにも驚いています。「KBCニュース」も倶楽部設立の2年後の昭和54年10月に1号が発行され、2号3号と毎月発行され、私もアマチュア無線25年史を6号迄のせましたが、そのあとはQRTになってしまいました。
 開局して50年が過ぎました。半世紀前の開局当時の困ったこと、楽しかった事など想いつくままに綴ってみます。
 「こちらはJA1BDE、ただ今3.5MCにて試験電波の発射中です。お聞きの局はレポート交換をお願いします。」・・・頭はカッカとし、心臓は早鐘のように鼓動し、震える声で?一声を出したのが昭和31年4月・・・ここまでにたどり着くのに何年かかったことか。
 アマチュア無線に興味をもったのは昭和27年頃でした。20頁位の無線雑誌(多分CQだったと思う?)を読んだ結果、無線(銭)界に首を突っ込む羽目になろうとは・・・
ハムに関する参考書もあまり無い時代で、無線雑誌の中でハム国試に関する問題を頭に叩き込み、昭和28年に国試を受験しました。
 田舎者が東京へ行くんだから大変です。(hi)一次試験は東京電気通信大学でした。私の隣に国税局勤務の黒須さんが居て、話がはずみ試験が終わったら秋葉原へ行く事になり、黒須さんに連れられて秋葉原へ行ったが、始めてみる秋葉原に圧倒されました。夢に見た高嶺の花のBC779(米軍放出)が並んでおり、恐る恐るダイアルを?したことを想い出します。2週間して、一次試験の合格通知が来て、二次試験は中野高等無線学校でした。暫くして合格通知が来ていよいよアマチュア無線局を開局してコールサインが貰えると喜んだのも束の間でした。
 当時のアマチュア局は放送局並の、開局申請、・・・予備免許、・・・試験電波、・・・落成検査、・・・本免許とあり、予備免許が降りて70日以内に落成検査を受けなければ予備免許が失効になってしまい、無線機を作る金がなければ開局申請もできませんでした。
 私もその1人で試験に合格してから開局迄に3年位我慢せざるを得ませんでした。(合格してすぐに開局申請していればもっと早いコールサインでしたが・・・)無線機を作るマネーも何とか目鼻がたち、昭和31年2月にワラ半紙にガリ版刷りの開局申請を出し1ヶ月位して「JA1BDE」の予備免許が来ました。
 落成検査に向けて毎夜ギーコギーコとシャーシーの穴あけやパーツの取り付けに大忙しでした。TXのパーツじゃ秋葉原のジャンク屋か通販で入手するしか方法がなかったのです。パーツは全部米軍の放出ジャンク品でした。¥も高かったですね。誰れも教えてくれる人が居ないので、無線雑誌を頼よりの悪戦苦闘の連続でした。こんなバラツク建てのTXで果たして電波が出るのか疑心暗鬼でしたが、作る楽しみの方が大でした。
 何とかTXも完成し、アンテナを張る段になりフィーダー線で悩んでしまった。3.5MCのダブレットアンテナを張るつもりでしたが、75Ωの同軸ケーブルなんて有る分もなく、ハシゴフィーダにするにしてもガンマーマッチのマッチングを作るのにも大変で、一寸能率はおちるが単線キ電アンテナに決め資材集めに入るが太い銅線が中々手に入らず、エナメル銅線を何とか入手し、40mのアンテナを張っていたがこんな細い線では切れないかと心配でしたが、何とか持っていました。
 アンテナも完成し、電監へ試験電波発射届書を程出し、初文の試験電波の発射迄にこぎつけた時は感無量でした。
 当時は規制が厳しくて予備免許中はRSのレポート交換のみでラグチュウーは厳禁でした。TX、RXもバラックなれど何とか完成し電波よく飛ぶことがわかったので落成検査の書類を程出し、検査日が昭和31年6月8日に決定したが合格するや否や不安の日々でした。
 いよいよ検査当日になり落居駅へ迎えに行き、検査官が二人で来たのには驚きました。お世辞のつもりで「測定器をお持ちしましょう。」といったら「お願いします。」と重い測定器を持ち50分位山道(?)を歩きやっと到着です。
 早速にTXに火を入れて測定開始です。周波数測定器は米軍放出のBC227というヘテロダイン波長計でした。(如何に日本が電気技術に遅れていたかを示す一例です。)検査官の内一人は技術関係、一人は事務関係でした。3時間位かけて周波数の変動(多分3/1000CSだったと思う)、アンテナ、安全装置、申請書類を調べて15時頃別掲の無線検査簿に合格の,を貰った時は涙が出るほど嬉しかったです。
 西八代郡六郷町落居神有の山の中にJA1BDEが誕生した日でした。
 当時は3.5MCも7MCも二波のスポット周波数しか割当がありませんでした。その夜から毎日毎夜波を出しラグチュウーに花が咲き寝不足の毎日でした。スポットなのでQRMは当たり前ですが、QRMを押潰して全エリヤーと楽にQSOが出来、益々ラグチューにはまって行きました。
 暫くして一波長の80mのアンテナにしたらどうなるだろうと思って80mの単線キ電アンテナを張り、レポートの結果ローカルは強くなり、DXは1/2と同じか少し強くなった様なので一波長アンテナを使っていました。
 毎夜ラグラチュウーをしている仲間がお空だけのクラブを作ることになり「スカイキヤラバンクラブ」(略称SKC)と名称しクラブを立ち上げリーダーは当局でした。全エリヤーで30名位加入していました。3.5MCはSKCメンバーのバンドのようでした。新局が3.5MCで波を出すと「SKCのJA1BDE局に挨拶をしておいた方がいいよ・・・」といわれる位に3.5MCの主でした。(hi)
 暫くして「山梨のハムの新年会をするんで出席してほしい。」とJA1HD西山さんから連絡があり、出席しました。別掲の写真は昭和32年1月湯村で新年会をした時のものです。その席で「山梨クラブ」を設立し、会長にJA1EC佐野さん、事務局にJA1HD西山さんに決まり、宴会にJA1EC佐野さんが「BDEさん3.5で頑張っていますね。そのうちに3.5で声をかけるのでよろしく頼みますよ。」といはれた時は何とも返事のしようがなかったですね。・・・hi
 昭和32年の夏に岡島デパートと話をつけて、岡島の前でアマチュア無線の局の公開実験とした所、ハムが珍しい時代なので大勢の人が集まって見学・・・又質問をしていまた。
JARLも私的な団体でパンフレットがめる分でもなく、自作パンフレットを誰かが作って来ましたが珍しくアットいう間に無くなりました。その後何回も公開実験をしたが大成功でした。
 JARLも社団法人にする設立準備会が昭和32年に発足し、発起人8名の中に現会長のJA1AN原さんも入っています。当時のJARLニュースは藁半紙にガリ版刷りの1枚です。
 話は前後しますが、山保には駐在所が無く落居駐在所のpが1週間に2回位パトロールに行っていました。山保へ行く落居の最北端になり、pは休憩所兼情報集め(?)のつもりで必ず立ち寄るのが日課でした。
 ある日pがお茶を飲みながら「あの大きなアンテナはなんですか・・・?スパイでもしているの」・・・?と聞かれたときには本当にビックリしました。
仕方がないので免許状を見せ、実際にQSOして見せた所「すごいですね、ここから徳島県、大分の人と話が出来るなんて・・・イヤー素晴らしい。」と感心しながら納得して来れました。(ハム人工の少ない時代のエピソードです)
 3.5MCと7MCがバンド開放になったのは昭和32年12月12日でした。待ちに待ったバンド開放でした。バンド開放に伴ってVFOを自作せねばバンド内を自由に波を出せないのでパーツを集めて自作したが水晶発掘子のような安定度は非常にむつかしかったです。大体自分の発射電波が35???と周波数がわからず冷汗をかいた事もありました。
 まだまだ昔話はありますが、この辺で終わります。
KBCも最盛期に比べれば半分くらいの人員ですが、皆で楽しいクラブであるよう頑張りましょう。


   私とアマチュア無線  JE1EBI
 
 思えば中学時代に鉱石ラジオを組み立てて、次にラジオを作るため、銅などの廃品を集めて部品代を作り電源トランス真空管を少しずつ買い集めてやっと並四ラジオを組み立てました。NHKニュースが聞こえたときの感激は今でも忘れることは出来ません。また、東京の民間放送を聞きたくて真空管5本の高一ラジオを組み上げ、家の外へアンテナを張り時報前のコールサインを聞きレポートを作り自己満足したものでした。
 私が無線と深く関わったのはラジオ山梨へ入社し、ラジオ送信機のメーターチェックと起動、停止の操作を技術者として従事してからです。その後は、テレビ開局の工事を担当し、坊ヶ峰テレビ送信所勤務を命じられ上司より無線技術士の資格を習得するよう説得され、それからは試験の為に睡眠時間以外は無線関係の勉強に集中しました。電気機械屋さんが無線屋に転身するのに何度も挫折を乗り越えて無線技術士の資格を手にしてやっと送信技術者の仲間入りが出来ました。
 山梨放送アマチュア無線クラブ局員数が不足で先輩のJA1UIE(輿石)、JA1IFZ(浅川)さんが無線局免許申請を作成し、提出してくれました。JARLの無線設備の保証認定書が届き、昭和46年6月22日関東電波監理局よりJE1EBIの免許状が届いて開局できました。トリオの真空管とトランジスタの混合無線機で21MHzのCQを聞き、コンタクトできたのがアマチュア無線のスタートでした。甲府盆地無線倶楽部へは昭和52年5月21日ロールコール第6回目のグランドミーティングより入会させていただきました。以後25年以上皆様と親しく兄弟のようにお付き合いをしてきましたが、今後ともよろしくお願いします。


  何も解らず無線を知った頃 JG1SYM
 
 今に思うと過ぎ去ること50年前、小学校2・3年のことだったと思う。我が人生に於いて良き友人に恵まれ、これに関わる様々な行事に参加して、それを満喫させてくれたハムという呼び名に出会ったのは。
 私は1人で、あるときは3つ違いの弟とよく母の実家に遊びに行き、3・4日泊まって親戚の有難みを楽しんだものだ。春休み、夏休み、お正月と、小学校の6年頃までやっかいになった記憶がある。従兄弟は6人。私より1つ上の姉さんと2つ下の◎子とはとても気が合って、兄弟のような気持ちで一緒に遊んだことは今でも懐かしい良い思い出として残っている。
その母の実家から300メートル位の所に母の姉の家があり新家と呼んでいた。いわゆる分家である。この分家にも5人の従兄弟がいた。皆いい人だった。母の実家は大家と呼んでいた。母は大家にのみ泊まった記憶しかないが、私たちは大家に2日、新家に1日くらいの割合で過ごさせていただいた。 両家とも互いに「我が家に泊まるように」と気持ちよく勧めてくれたものだ。
 ずいぶんと前置きが長くなったが、その小学校の2・3年の頃、新家に泊めてもらったときのこと。9才年上の当時甲府工業高校の電気通信科の従兄弟から「修一、ラジオでなくても声が聞こえる無線の機械があるんだ」と夜自慢気に見せてもらった。大きなダイヤルがいくつかあったと記憶している。随分大きな機械だった。しかも「絶対触るな」と云うお達しだった。「声が聞こえたら教えてやるから、明日の朝になれば多分聞こえるだろう」とのことだった。かくして翌朝、よく分からないが人の声が聞こえた。驚きだった。今まで、ラジオ以外から音声を聞いたことのない私には。この時、初めて「無線」という言葉を知ったのではないかと思う。外には長い竹の棒がかなりの間隔をおいて立ててあり、これがアンテナだと教えてもらった記憶がある。また、このとき鉱石ラジオというものがあることを知った。このときばかりは新家に何泊もやっかいになった。夜になると鉱石ラジオを1人で聴くことができ、楽しみであった。
 早速家に帰って、鉱石ラジオのパーツを父にせがんで買ってもらった。下校してから静かなところで聞き入った。このことがきっかけで、小学校5年生の時にわくわくしながら1級スーパーラジオを組み立てた。音が出たときは飛び上がるほど喜んだ。
 これを夏休みの工作として学校に提出した。友達から色々聞かれて自分でもよく分か
らないことを喋ったのではないかと思う。そうそう、このときのアンテナは長い方がよく聞こえることが分かったので、ちゃっかり本屋から長屋の引き込み線を利用させていただいた。電線は痺れないということを知ったのもこの時だったが、これは曲解かもしれない。
 この頃の興味が潜在的にあってアマチュア無線の虜になったのかもしれない。


   KBCつれづれなるままに JI1VEP
 
● 初めに   25周年記念 広報を出す事になった。会員全員の原稿を と広報部JF1KRV局から要請あり 大変である しかし 良い事ではある 残したい25年 言いたい事は沢山ある 様な気がする とっ思ってコンピユーターの前に座る しかし なぁにも出て来ない 有る ある 確かに何か書く事ある様な気がする でも無い  以前 私も広報をしていた事も有る 幾冊か出した事もあった あの時出してくれた会員 改めて感謝する 何故だろう 考えて見た そこで 1つの結論を出す 私の心境の変化だろうと あの頃は1+1=2で他の答えは無かった 少なくてもそう思っていた しかし不安だった 自分の考えが違うのではないか 皆の反応を見て 又 誰かが答えを出してくれるのではないか と 最近は どうでも 良くなった 答えを出そうとするのが無謀な事に思えるからである 1+1=2 は 学校での話し1+1+α=無数の答  αは時には2より大きくなったり 何倍になったり マイナスにもなる だから 此の世は面白い 其れを楽しもうと とは言え 前にも其れで楽しんでいたけど で 文をまとめ様とは 一切せず 落ちの無い落語にはなるが 取り止めが無く書いていこうと思う 此れなら書けるかも !            ! 学・文才の無い私でも
● 私は こうだ と決め付ける言い方は大嫌いである。何故なら世の中にそうだ という物 正しい事 間違っている事 って無いと思っているからです。唯 今は此れが最良だと思う事をする 言う それだけで 其れは正しいかは疑問に思うからです。 私の生れた頃は 落下傘で降りて来たアメリカ兵を竹やりで国民全員で立ち向かうことが正常だったと聞く 最近でもオームとか いかがわしき宗教 鈴木某 等 色々出てくる。皆 人の事は聞き耳持たず 物事を自分勝手に定義づけ 決め付け強制しようとしている 此の頃のテレビ でバトルがはやっている 相手に物を言わせない 自分の地位・権力・立場・はいか ありとあらゆるもの を利用して自分を有利にしていく 特殊の才能である 其の殆んど が法律・規則 常識論まで持ち出し まくし立てる  日本全国 国民 殆んどが自分の懐しか考えなくなっているのだから無理は無いか 此れでは全員 どこかの国と同じだ 金も法律も規則も常識もみんな人の幸せになる道具や格言に過ぎないのに…
● そんな訳で 物を書く 物を言う 私には大変難しい  書く・言う という事は他人に何かを伝える 伝えたい と言う事 私にはそういったものが無い 有ったにしても 私の 文才では 分厚い聖書一冊分書いても相手に伝わらないだろう、そうも言っていられないので 書いてみる事にする  私は 不満だが文の中には決め付けの文も出てくると思うが 確定した意見ではない 其れが今一番 「ベター」 な事だろうと思いつつ書いてみる事にする。 ● 甲府盆地無線倶楽部 通称KBC 実に25年になる 発起人は私ではないが、創立からの係わりである、実は無線従事者資格所得後 峡南へ入部したが、盆地中心へ理想のハムクラブを作ると言う事を聞き峡南にはそれきりになった。
● (365x25+6)/7=1304.4 単純に25年+閏年を週で割った物 回数である。勿論最初の内は数えないロールコールの日もあった、グランドの日と重なる時は数えなかった事も、5月ごろに本当の25周年は過ぎたとか ? 何れにしても 回数のみの25周年は今年の11月16日か24日のロールコールになる。
● 9月6日息子の結婚式を行った。28歳である 無線も息子とだいたい 同じ歴史になる。家族全員 従事者免許を持ち 皆とリンゴ狩り・ヘボ取り 甲府無線倶楽部は我が家の歴史其の物だったと思っている。言い返れば 息子はクラブ員に創って頂いたと 思っている。各局のご列席 有難う御座いました。
● 長く続いている訳 私は常々 団体には特権階級が問題だと思っている。ちまたは 北の国と国交回復問題で大騒ぎしている。確かに問題は色々有るだろうが、ほんとの問題は特権階級が有ると言う事ではないか 戦国の徳川家も代々将軍に成るには 親の愛は受けずに教育されたと聞く。国も会社も趣味のクラブも・・・ KBCも役員の任期1年と決まっていて、何にせよ自由に皆楽しんでいる。いや 皆が楽しいのが自分の幸せ この原理が解っている人間の集まりである と 思っている。
● 価値観     人には価値観と言うものが有る 其れは皆違う 又 見失う事も有る 自分の価値観を他人にも押し付ける人も居る 場所によって価値が有るものを側に置きたがる 都会の暮らしを山の中へ持ち込もうとする者も居る    二兎追うものは一兎も得ず と言うが何かを行おうとする時は何かをあきらめ無ければいけない 特に男は!  何かの番組で見たが 女性は幾つかの事が同時に行う事が出来る 男は同時に一つしか出來無いと言っていたが 其の通りだと思う 女は広く浅く 男は狭く深く 其れでうまく行っているのかも !
● 専門家   世の中には専門家と称する人々が居る いや 今の世の中 専門化しないと付いて行けない 何の申請書にも職業欄がある 常識という言葉が薄れてきている クイズ番組でも常識問題といって出ているが できる人があまりいない 篠沢教授なんかも記憶に深い それどころか 賞金がだんだん高額に成って行く  その癖 フリーターだとか便利屋が重宝されてきている どう言う事か   技術が発達しすぎて 専門家しか解らなかった事が 逆に 誰にも 解る様に成ったと言う事か? 使い捨ての時代が長かったせいで 部品・本体まで新品に変える それなら ちょっと知っていれば出来る 金も貰い易い 又 其の方がクレームの再発の心配が少ない 町の電気屋さんも ・・・・こんな事 考えるのは 私だけかな もしかしたら 名前がいけないのかも 「修理」
● 国会中継を見た  議員全員個室にして無線のみで会議をしたら国は良くなるだろうな 一人が発言しているときは 聞いていなければ成らない 嫌でも人の意見を聞くだろう それにしても 思い込みだけの集まりで 長いものには巻かれろ人生 其れとも 誰かにマインドコントロールされているのかな ?
● 禁句   冠婚葬祭には付き物とされている しかし 身近な友人 親族は別である 返って親しみがわいて良い場合が多い だけど 国によっても違う 宗教によっても違う 葬式に鳴り物を派手に鳴らしお祭りをする所もあればとんでもないと言う所もある 共産主義も民主主義も皆 マインドコントロールされているようだ 皆それぞれに良い所がある 悪い印象があるが良い事ではないかと思う いまだに マインドコントロールが解けずにいる 俗物には駄目か !


      無 線 雑 感  JE1WGB
 
 世に「ジプシー」なる言葉がありますが、あっちへ追いやられ、こっちに押し込まれ、なかなか家の中では場所がなく、それでも今は家族が集まるところに遠慮がちにリグは置いてあります。ですから時々CQの受け答えなどをしていると「また始まったな」という顔顔・・。無線の楽しさを上手に伝えるべきでしたが、「ガーガーうるさい」とか「初めての人とよくそんなにいつまでも・・・」というような印象を与えてしまったことは失敗でした。でも家族が一度だけですが無線に感謝してもらえたことがありました。高速道路で事故渋滞に遭い、一般道へ降りようかと思案していたところ無線でその地域の情報を得、下へ降りたらやはりトラックの事故か何かでもっと時間がかかったところでした。情報を知り得た方はさることながら、「発信した側も無線をやっててよかったと思うんだよ」と車中で話したものでした。便利だといわれる携帯電話にはない機能だともいえます。
 無線の楽しみはより遠くへ、ロケーションが悪ければ移動してより良くという指向があるようですが、私の場合は日常的に場所を問わず、距離を無理せず、普段の道具としての存在です。ですから割とクールな付き合いをしています。
 無線のクラブを知ることは私にとって新しい世界でした。何と言ってもお互い仕事は様々であること、もちろん趣味も多様であること。無線という一つの共通点でつながり、会えば話題はそれこそ多岐、週一回のロールコール、インフォメーションの交換は、土曜の夜、ついうっかりすることもありますが、楽しみの一つになりました。そして17週に1度のキー局は、やはり緊張します。
 この度、ロールコール1300回記念は、私自身はその半分も関わっていませんが、回数をここまで積み重ねてくることができた嬉しさはあります。おめでとうございます。私にとっては1301回記念、1302回記念というつもりで、毎回が記念運用の気持ちでPTボタンを押しています。これからもよろしくお願いします。


     私の悪いクセ   JQ1NXD
 
 ふと窓辺に掛けてある「無線局許可証」を見た時、20年近くになる確か昭和58年後半に近くなった頃の無線技術講習会の事が懐かしく脳裏をよぎった。
 あの頃の私は、後数年で40余年の公務員生活に終止符を打つ年を迎える頃となっていた。
 私は若い頃から他人のしている色々な仕事と言うか、私から見ると趣味に近い様な事に大変興味を持ち、すぐに自分にも出来ないかと、三日坊主になる事が多いのに首を突っ込む悪いクセがあった。それで今までに、女性がやる様な洋裁・編み物を始めとして、写真・8ミリ映画の制作・演劇(演出)・華道・茶道・クラフト・各種舞台鑑賞・映画鑑賞等、他人から見ると多趣味と言われるかも知れないが、何才になってもこのクセは止められない。
 そんな私が、退職した先輩達から、「退職してみて、一生を仕事に追われ、何一つ趣味を持たなかった事は、何か人生に大きな損失を受けた様な気持ちになった」と聞かされ、また私の悪いクセがモクモクと動き始め、何か退職後に出来る趣味はないかと捜し始め、ちょうどその頃秋山アキラ先生が仕事の関係で時々お会いする事が多く、先生の紹介で女性に囲まれる中でクラフトに熱を上げて居たが、アマチュア無線のお話しをお聞きし、兄がその方面の仕事をして居たので関心もあり、「これこそ退職後の最高の趣味になる」と、早速受講する事になった。
 あの当時の講習会は大変厳しく、遅刻を数回すると受講資格を失うので、時間までに出席する事には苦労したが、職場の同僚の暖かい理解と支援のお陰で一回も遅刻する事も無かった。そしてこの講習会の指導者が、丹沢さんと山田さんだったのが私には大変恵まれていたと感謝している。
 講習会は、私にとっては今までの趣味を会得する中では一番難しい道程だったと思う。今までの楽しみながら会得出来た趣味とは、一味も二味も違うものだった。多分丹沢さんと山田さんと言う大変素晴らしい協力者と言うか、指導者が居なかったら私は途中でダウンして居たであろう。
 講習会も無事終了し、ビクビクしながら受験した認定試験も無事パスし、初めて発信した時の感激と嬉しさは今でも忘れられない。
 お二人の紹介で「甲府盆地無線倶楽部」に入会し、今日まで私の大切な趣味の一つとして、20年に近い年月を楽しませてくれたと同時に、クラブの多くの友人を始め、全国の無線仲間との長いお付き合いをする事が出来た事は、私に取っては大きな財産であり、私は誰にも負けない素晴らしい人生を送り、幕を閉じる事が出来ると確信している。
 近頃は、またまた悪いクセが首を持ち上げ、「社会に遅れては」とパソコンに興味を持ち、70才の手習いと毎日悪戦苦闘を繰り返して居る。


                        
    アマチュア無線も落語も JK1PMB
 
 甲府盆地無線倶楽部に入れていただき早いものでもう25年になります。初め何を話して良いのか 自分のコールサインさえ良く話せませんでした。倶楽部の皆さんとお話をしているうちに少しずつ会話が出きるようになり、アマチュア無線の免許を取り倶楽部にいれていただきほんとうに良かったなあと思いました。何と言ってもJKIPMBは耳が遠いものですから、皆さんに迷惑をかけてはいけないといつも思っておりましたのでこちらから話しかけることはほとんど有りませんでした。無線の仲間の人達はこんなにもザックバランで何を言っても怒らない人たちの集まりなのかと思い安心しておしゃべりが出来るようになり、もう25年にもなります。甲府盆地無線クラブに入りほんとうに良かったなあと思っております。
 25年前のモツちやんJKIPMBと同じ様に人前に出るのもはずかしく、話をすることもいやで何もかもひっけでこまっている人がいると思うとその人達に少しでも役に立つ様な事をと思い、区の常設をしていた時、敬老会に何かお年よりが喜んでくれる楽しい事はないかと役員の皆さんで考えた末、落語にきまり 甲府落語会に来てもらいました 当日お年寄りが喜ぶ姿を見てPMBも 落語をやってみようと思い落語会の会長さんに相談した所「望月さん、落語を人前ですらすら話せる様になるには20年くらいはかかりますよと言われました。びっくりしましたが落語会に入れてもらいました。
 初めはどんなお話をとにかくお客様に手をたたいてもらえる様なお話をしなければなりません。人の話をすなおに聞き常にねたを集める様になりました。
 甲府落語会に入れてもらい何か教えてくれるのかと思っていたら、なにも教えてくれませんでした。名前だけこれはどうだろうと 「望月君は大工さんだから鑿や金槌を使うから『のみやかなづち』かなづちを子供のころとんかちと言ったで鑿や金槌と書いて『のみやとんかち』がいいだろう。」と名前を付けてもらい−ケ月もたたない内に、甲府春日モールで落語をする事になり、自分ながらお客様の前で話しが出きるのかと大変不安でした。1回目が終わりほっとしている所に会長さんが来て「トンカチさんごくろう様でした。」と言われた時はほんとうにうれしかったです。その後「トンカチさんお話がすらすら出来たのもアマチア無線でいつもマイクを握っているからですよ。」と言われた時はアマチュア無線をやっていてよかったなあと思いました。
 これからもアマチュア無線はもとより 落語も勉強しいろんな所に行き、ボランチア精神で頑張ろうとおもいます。
 やっていて 良かったアマチア無線 これからも JKIPMB 4649


   アマチュア無線25年 JM1IAX
 
 2年後の平成16年には、5回目の免許更新になり、いよいよ開局25年になります。
開局と同時にKBCの仲間になり、その当時の広報で覚えているのが、JA1BDE局の「アマチュア無線25周年」というような記事だったと思います。
 同じ25年でも、私の25年はただ25年がたっただけで恥ずかしい限りですが、各局にこれまで支えられながらやってこれたことを自分でもうれしく思います。
 これからもよろしくお願いします。


    他のクラブから入会して JQ1NWY
 
 以前は、他のクラブへ入っており、途中から甲府盆地無線倶楽部へ入会させてもらいましたが、大変よかったと思っています。 1300回ロールコールを迎え、これからも、出来るだけ活動に参加し、頑張っていきたいと思っているので今後とも、よろしくお願いしたいと思います。


    甲府盆地無線クラブにお世話になった経過 7M4DJJ
 
 私の場合、無線を始めたキッカケは至って単純で山やスキーで仲間と連絡を取り合うのに省電力ハンディーでは範囲が狭く他人の会話と重なることから、もう少し離れても決まった仲間と会話が出来る「物」と思い、仲間と一緒にハンディー(2m,430)を購入し直した。ちょっとした山に登ると千葉、埼玉、静岡あたりから電波がどんどん入ってくるのにビックリ! どうせならもう少しやるかと思い東京電力の講習会で4アマを見事取得(と思ったら一番下の資格)
 ある日、JARL山梨支部のフォックスハンティングが韮崎の総合公園で運営され、先ずそれを見に行った。近くに居る運営役員のような人に“どこか簡単なクラブを紹介して下さい。”と話し掛けると、その役員は即座に「この人が良い。」と紹介して頂けた。何とその人 = JA1BDE:丹沢さんとの「運の良いキッカケ」となった。『うちのクラブはここ10年来新規入部者はいないが、入部には紹介者と資格審査がある。』との前置き条件を説明された後、ただ丹沢さんが即座にOKなら大丈夫。うれしくて早速会社のパソコンで7M4DJJの名刺を作った。
 後日、クラブの山本さんから[ 甲府盆地無線クラブ]のポストカードと会合案内が届いた。甲府盆地無線クラブの会合でクラブメンバー全員に新規入部の紹介をされる。席上、以前乗鞍岳の移動運用で初めてつながりその日にアイボールした = JM1IAX:中沢さんと再会した。
 丹沢さんから「中沢さんと面識があるなら尚よろしい。」のお墨付きで正規クラブ入会の了承を得て早速名刺を配り挨拶する。配布されたクラブ名簿を見てビックリした。会員全員がJコールで、職業は企業の社長、校長先生、大学教授、技術屋さんの面々。定年前の会社員は誰もいない。大変なクラブに入ってしまったと後悔したが、何とか付いて行こうと、クラブの年間行事に参加して見ると移動運用は勿論楽しいメンバーの会合であることを実感し安心できた。
 クラブの事務局や会計を経験しながら一番印象深い事は、山梨県大泉で開催された「99全国ARDF」の成功であった。
 これからも甲府盆地無線クラブの皆さんとの付合いを大切に考えています。


    ロールコール1300回    JO1JIO

 1300回ロールコール、夢の様な数字ですよね、まさかとか、いつまでつずくのかなとか、色々と思い浮かべますが、答えは、あるようでない数字ですよね。はたしていつまでつずくのか私にもわかりません。一人では決して出来ない数字、ここまでくるには、諸先輩の言葉では言い表せない程のご苦労と、努力と英知が養われて生まれたと思います。アマチュア無線と言う同じ趣味を持ち、お互いに信頼感と、協調の和をもって重ねに重ねてきたたまものだとおもいます。
 ロールコール1300回は、あくまでも通過点の数字ですよね。これから、1400回、1500回と後何回位までロールコールに参加させて頂けるのか私にはわかりません、でも、続けていきたい、続けてほしいいつまでも、、、、、、、、、、、


    仲よくしてもらって JP1MRU
 
 甲府盆地無線倶楽部ロールコール、第1300回おめでとうございます。心からお祝いし、うれしく思います。
 いつも、無線でもグランドでも、仲よくしていただき、心からうれしく、ありがたく思っています。これからも、どうかよろしくお願いします。


     QSOをスマートに  JN1FNE
 
◎ メリットと云う言葉は、モービル等Sメータが見にくい際に使う言葉で、固定で使うと相手に失礼になる。
◎ 常置場所は、設置場所に対応する言葉で、届出だけで変更でき、通常はモービル内を意味する。
◎ 馬鹿丁寧なコールの反復は、運用第二十九条二項の省略の精神に反し、電波の無駄使いである。
◎ 了解という言葉は、応答で確実に通報を受信した事を知らせる為、
 @相手局の呼出符号  1回
 A「こちらは」     1回
 B自局の呼出符号   1回
 C「OK」又は「了解」  1回
 D最後に受信した通報の番号 1回
 運用第三十七条一項二項の@ABDを省略したものなので、了解を二回言ったり、了解後に折角省略したコールサインを反復するのはおかしい。
◎ チャンネルチェックと云う運用方法はない。
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 県外のOMから沢山耳のいたい話をうかがいました。趣味の無線なので、あまり苦しい事はと反論したら、それなら免許を取るなとの事でした。
 免許を受けた以上は、法に従って運用すべきだと重ねて苦言を提されました。
       (KBCニュース第17号より転載)

  
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